Facebook ページ から最新ニュース

2009年6月28日日曜日

説教:「手を伸ばしなさい -Estende a tua mão-」


聖書箇所
第一日課   イザヤ  58:11~14
第二日課   2コリント  5: 1~10
福 音 書   マルコ  3: 1~12

説教題:「手を伸ばしなさい -Estende a tua mão-」
導入
  日本で臓器移植法の改正案が、議論されているようです。終わる命と、それによって、助かるいくつもの命。終わるというより、終わったと判断して、というと ころが、脳死ということと、判定というところの神様ではない人間の知恵から答えを出そうとする、難しいところだと思わされます。クリスチャンの提供者の遺 族から、死んでしまっても人の役に立つなら、こんな感謝なすばらしいことはない、と聞き、心動かされ、考えさせられたことを思い出します。

み言葉に聞く
  安息日に律法で禁じられている癒しをすることにより、手のなえた人は癒され救われましたが、これをきっかけに、イエス・キリストは殺されることになってい くのです。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」人を救えば、自分を滅ぼしてしまうとい う、究極の選択。それを覚悟で、命を懸けてくれたイエス・キリスト。実は、イエス・キリストの人生と十字架の死は、それに尽きるのです。脳死判定と臓器移 植という事柄とは比較にならないほどの、もっと積極的な、徹底的な自己犠牲と、他者への奉仕だと思います。そこに現わされているのが神の愛です。

振り返り
  これに対していつもちぐはぐで対照的なのは、人間の心です。ファリサイ派の人々は、その場を出て行き、ヘロデ派の人々と、イエスをどうやって殺そうかと、 話し合いを始めます。そして、病気を治してもらおうと、たくさんの人々が集まります。自分が正しいと思うあまり大切なものを見逃してしまう気持ち、他者を 受け入れられない気持ち、あるいは、自分へのご利益だけや目の前の都合の良い問題解決だけを願う気持ちが溢れているのです。聖書の文字面だけを読んでいて も、目の前の奇跡だけを見ていても、大切なものを見逃してしまいます。一方、「イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ」「汚れた霊」の ほうが、イエス・キリストの本質を見抜いていたのです。

奨め
  しかし、私たちの不完全さと、弱さは、神様はご存知です。そして、そんな私たちに、「手を伸ばしなさい」と呼びかけてくださるのです。「手が萎えた人」、 それは私たちの人生をも表しています。逆に「心かたくなな人」にも「手を伸ばしなさい」と呼びかけられているはずです。
 そして、忘れてはいけな いのは、キリストご自身が、私たちに手を伸ばしておられるということ。その手は、きれいな柔らかな手ではなくて、その手のひらに、十字架に釘付けされた痕 がしっかりと付いているのを見逃してはいけません。その傷は、人々がこの正しい方を十字架に追い込んで殺してしまった証拠です。私たちが人を傷つけてしま うたびに、キリストの手に釘を打ち込み続けているのと同じ苦しみを背負わせていることを思い出します。
 リオデジャネイロのキリスト像。有名な観 光地で、たくさんの人が見物をし、写真を撮ります。狭い展望台から大きなキリスト像と共に自分たちをカメラに写そうとすれば、なかなか収まりません。人々 は、地面に寝転がって、地面すれすれから互いに写真を取り合っていて、とてもほほえましい光景でした。私は、カメラを向けながら、レンズを目一杯望遠に合 わせて見ました。キリストの両手を見てみたかったからです。しっかりと、釘の痕も刻まれていました。キリスト像の右手、左手を、アップで写真も撮ってみま した。この大きなキリスト像の、その手の小さな傷跡に気付く人はどのくらいいるんだろう?と思いながら、山を降りました。
 キリストが私たちに伸ばしてくれているその手に、深い傷跡があることを思い、悔い改めと、神と人を愛することができるようになりたいと、思わされます。
 心が萎えていて何も出来ないときも、心かたくなになり、また心を閉ざしているときも、「さあ、手を伸ばして御覧なさい」とキリストは、呼びかけているのです。私たちの人生の、トラブルや困難さ、病気や迷いごとも、キリストは引き受けてくださいます。
 天地創造の画の神様もその手をアダムに伸ばしている。キリストも、その傷のある手を私たちに伸ばしている。私たちも、萎えた手を、神様に向かって、新しい明日に向かって、そして隣人に向かって、伸ばしましょう。

祈り

2009年6月21日日曜日

バザーは大盛況でした

昨日、バザーが無事に終わりました。たくさんの方の応援も頂き、ありがとうございました。
そして、たくさんの方に、おいで頂きました。
古着、古書、雑貨類、それぞれの売り場は大盛況でした。
カフェのサービスも始め、暖かいベンチでゆっくりもしていただけました。

いろいろな方ともお知り合いになることが出来て、とても楽しい日でした。
次は、11月頃を予定しています。
よろしくお願いします。
Posted by Picasa

2009年6月14日日曜日

説教:「新しい革袋に -em oders novos-」

聖 霊 降 臨 後 第 3 主 日(緑)
・ 第一の日課 ホセア書2章16節~22節 (旧 p. 1405)
・ 第二の日課 コリントの信徒への手紙Ⅱ3章1節~6節 (新 p. 327)
・ 福 音 書  マルコによる福音書2章18節~22節 (新 p. 64)

説教題:「新しい革袋に -em oders novos-」

導入
  「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉や「三位一体」という言葉も、聖書の言葉というよりも、一般社会でも良く使われるようになった言葉です。特に 政府の行財政改革の中で、よく使われていました。 先週日本での大臣の辞任や、アメリカ、イランの大統領選挙も「改革」が焦点でした。「改革」というと、 今までのものすべてが悪で、新しいものが良いものということでしょうか? あるいは、キリストの弟子以外は、旧態依然たるあり方に固執するだけの、「改革 への抵抗勢力」とも言える悪役たちだったというのでしょうか。

み言葉に聞く
  今日の聖書では、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々とイエスさまとの問答の場面です。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食をしていましたが、 イエスさまの弟子たちが断食をしないことに対して、「どうしてこれをしないのですか?」と問いただしたのです。「イエスさまの言い分がもっとも」で、ヨハ ネの弟子たちやファリサイ派の人たちは「何を古いことを言っているんだろう」と読んでしまいますが、そう簡単に考えてはいけません。当時のユダヤ教の戒め や掟の中で、彼らがとても大切にしていた神様との関係を思えば思うほど、これらのことは、そう簡単にないがしろにしてはいけないことでした。むしろ、掟を 守っていないイエスの弟子たちが、とても不信仰にみえる、そういう出来事でした。
 なぜキリストはそれを「ないがしろ」にしたのか、理由は二つです。その掟の大切さを認めつつ、そこに心が伴っていないことを問題にされた。そして、それ以上に、今は、新しい神様との契約が実現する新しい時代が来ているのだいうことでした。
  神様との関係で、また、家族や友人との関係で、形だけで心が伴っていない自分。古い考え方、昔の出来事、たくさんのしがらみ、そして、変わることを恐れ、 嫌がる自分自身。それは、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちの中にだけではなくて、この自分の中にあることを知ることが大事なのです。キリストは、 それを打ち破りに来たのです。
 罪深い自分にしがみついているのをやめて、神様にゆだねる。無条件降伏する。そんな潔さで、私たちは変えられま す。それが洗礼を受け、キリスト者として生きていくことです。一生懸命に神様を信じることが信仰ではなくて、今までの重荷を下ろしてキリストにしたがって 生きてみること、これが信仰です。

振り返り
 新しい神様との関係を私たちに伝えたキリスト。新しいぶどう酒を入れるには、今までの古い私たちは役に立ちません。私たちは、いったん、破られ、裂かれなければなりません。
 それは、「ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちはなんて物分りが悪いんだろう」と他人事のように 思っている私こそが、破られ、変えられねばならないのです。心の痛みを伴う出来事かもしれません。
 今までの自分を捨てて、キリストの十字架と共に一度死に、キリストの復活と共に、新しい自分が生まれる、そのことを洗礼を通して体験せねばならないのです。
 しかし、神様は、厳しいこと、破り裂かれるべきことを私たちに言っているだけではありません。
  「神の痛みの神学」という本を書き、世界的に有名になった北森嘉蔵先生のことをお聞きになったことがある方も多いと思います。先生は、熊本生まれでもとも とは、ルーテル教会の牧師でした。西洋社会が見ることの出来なかった視点、「神の痛み」という視点の神学をあらわし、大きな足跡を残した牧師です。私も晩 年の先生の講義を受けることが出来た一人です。この先生が「神の傷みの神学」で、キリストの愛というは、「するどい両刃の剣を、風呂敷で包み込むようなも のである。」と言っておられます。するどい両刃の剣を風呂敷で包むなら、その風呂敷は傷つき破れてしまいます。けれども、そのような痛みを負いながらもな お包み込んでいく愛、それが、神の愛、キリストの十字架の愛だというのです。「神様は人間を超越しているので悲しんだり悩んだり痛んだりしない」という発 想ではなくて、「神様が痛む」ということを先生は言われました。そして、日本人が古来から使う風呂敷をたとえに使って、神様の自分を犠牲にしながらも私た ちを包み込む愛を、見出して、わかりやすく説明してくれています。

奨め
 今までの自分を捨てて、新しく生まれ変わるという、ある意味で決断と犠牲を払わねばならない出来事ですが、古い革袋のように破り去られる私たち以上に苦しまれたのが、私たちを包み込んで傷つき破れてしまった風呂敷のようなキリストがいることを忘れてはなりません。
 やさしさを受けても、許しと愛を受けても、依然として鋭い両刃の剣を振りかざし、キリストを傷つけ続けているのが私たちの姿です。
  古い革袋と、風呂敷のことを思い出しながら、キリストの愛を思い出し、私たちも、ゆるしと愛のある人間に変えられていきたいものです。神様の大きな痛みを 伴う、大きな愛に触れて、作り変えられ、私たちも愛と希望のあるキリスト者として、多くの人に出会っていけるよう、神様の祝福をお祈りいたしましょう。 

祈り

2009年6月7日日曜日

生まれ変われるなら・・- Se voce pode nascer de novo・・ -

「生まれ変われるなら・・- Se voce pode nascer de novo・・ -」

導入
お借りした、ブラジル移民百周年記念の「祖国はるかに」という歌集を時折読み味わっています。それぞれの人生の楽しかったこと、つらかったこと、望郷、希望、迷い・・、などの思いが綴られています
インターネットで「生まれ変われるなら」と検索すると、たくさんのアンケートや、書き込みが出てきます。「生まれ変われるなら、男と女どちらがいい?」とか、「生まれ変われるなら、いつがいい?」と。「楽しかった高校生の頃」。「一ヶ月前に戻りたい。あの株を売ってしまうから」。「戻ったつもりで明日も頑張ろうと思う」。「記憶を持ったまま戻れるわけじゃなければ、いつに戻っても、結局同じ人生になるよ」。中には、「生まれないというのを選べるなら、それがいい」というものも。私たちはいろいろなものを抱えて生きています。

み言葉に聞く
キリストは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」といわれています。現実的にもう一度生まれることでもなく、奇跡的に過去に戻ったり生まれなおしたりする、それらのことを言っているのでもありませんでした。罪の許しと生まれ変わりの洗礼を受けて、そして、聖霊の力を受けることにより、新しくされ、神様との関係も回復され、真の意味で生きるものとされる。そのことをいわれているのです。

振り返り
どれだけ富や名声で人生で成功したかに見えても、本当の幸福ではありません。心の平安、安心、信頼と確信。赦し、赦される関係。助け、助けられる関係。愛し、愛される関係、必要とし、必要とされる関係が人生には必要です。それは、神様との正しい関係、人と人の本来の関係が回復すること。縦と横のこの関係を回復するために、縦と横が交差する十字架の上でキリストは命を捨ててくださったのです。神を愛し信じ、人を赦し愛して、死んでいかれたのです。この方の本当の愛を知るときに、私たちの心の有りようは変えられていきます。もう一度人生をやり直して、いい学校に行くとか、よい仕事につくとか、よい結婚をして、成功をするとか、そういうことで得るものとは比較にならない、人間の根源的な事柄です。それがなければ、人生は無意味なのです。

奨め
そんな資格が、自分にあるのでしょうか? イザヤは預言者として召される時、喜んだのではありません。「災いだ。私は罪深いものなので、滅ぼされてしまう」と言ったのでした。「不信仰だと思う人ほど、一番信仰深い」「自分は罪深く弱いと思う人ほど、一番赦され、強い人」なのです。「人生をやり直したい」「もう一度生まれ変われるなら・・」と絶望している人ほど、真の生まれ変わりに近いのです。病や苦境で苦しいときこそ、神様を見上げ、神様に戻ることが出来ます。一緒に神様を見上げましょう。そして苦境を何度か過ごした人は、今苦境にいる人に、キリストの愛をもって奉仕していきましょう。

私たちの教会について

「教会といっても色々あるようで、よく分からないなぁ。変なとこじゃないといいけど・・・」とよく聞きます。私(牧師)も昔そうでした。そこで、簡単に説明します。(igrejaluteranajaponesa@gmail.com)

 ブラジル福音ルーテル教会(IECLB)は、宗教改革者マルティン・ルターの流れを汲む、歴史のあるプロテスタント・キリスト教会です。 世界ではルーテル世界連盟(LWF)を組織し、世界最大のプロテスタント教会グループとして、世界各地で伝道・奉仕・教育に携わっています。LWFの社会奉仕部門のほか、ACTを通じた難民や被災者の緊急支援、開発事情では世界で定評があります。
 ブラジルでは、多数の日系人や駐在の日本人の方々のために、1965年から日本人牧師が宣教師として派遣されています。
 教会では、日本語での礼拝やメンバー同士の交流に加え、ブラジルでの社会奉仕の働きにも取り組んでいます。ポルトガル語での礼拝も始めました。

 日本語の礼拝、ポルトガル語の礼拝に参加したい方、牧師に相談がある方、楽しい食事やお茶をしながら、わいわいと情報交換をしたい方、日本のことをもっと知りたい日系人の方、駐在や引越しでブラジルへ来てもっといろいろな情報や人脈がほしい方、どなたでも、お気軽においでください。

 教会では、日本語によるパソコン相談教室や、日本語教室も始め、地域の皆さんにも喜んでいただいています。

 まずは、メイルをいただくか、日曜日の礼拝に来てみてください。牧師が丁寧に紹介や説明をいたします。
 ブラジル4年生?の牧師の日常生活を気ままに綴ったブログもご覧ください。