Facebook ページ から最新ニュース

2009年10月31日土曜日

召天者記念礼拝



今日は、全聖徒の日。召天者記念礼拝をいたしました。



会員の皆さんが、先に召天された方々のお写真をお持ちいただき、礼拝堂の聖卓のところに置き、一緒に礼拝をします。
生きたものも、死んだ者も、神様のみ手ての中にあります。


小さなローソクに明かりをともして、故人を偲びながら、神様の恵みを分かち合いました。




Posted by Picasa

2009年10月26日月曜日

説教:46年かけて建てた神殿を…

宗教改革記念主日礼拝

Bíblia
1)2Reis 列王紀下22:8~20 (AT p.617),
2) Gálatas ガラテヤ5:1~6 (NT p.349),
3) Joãoヨハネ2:13~22 (NT p.166)

説教題:46年かけて建てた神殿を…
  -A construção deste Templo levou quarenta e seis anos, e …-

導入
今日は宗教改革記念日です。マルティン・ルターが1517年の10月31日に、ヴィッテンベルクの城教会の扉に、「95カ条の提題」を掲示した日です。当時の教会が贖宥券(免罪符)を発行して販売し、罪の許しを「売り買い」していたことへ神学的に議論を持ちかけたのでした。救いは、イエス・キリストの十字架の死と復活により、そして、それを信じる信仰によってのみ与えられる、と訴えたのです。

聖書に聞く
私たちの教会は、11月29日がバザーで準備を始めています。今日の聖書の言葉は、「私の父の家を商売の家にしてはいけない」ということでした。神殿にある店を破壊し、追い出した、イエス様の姿勢に驚かされます。キリストは、何を糾弾しているのでしょうか? イエス・キリストが訴えていたことも、人々の信仰を形骸化させ、神への供え物を便利にするために商売をし、救いさえも売り買いできるかのようにしていた姿勢を糾弾したと受け取ることができます。驚く人々の「こんなことをするには、どんなしるしを見せるのか」という問いかけに対して、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とイエス様は答えます。十字架の後三日目に甦ることを言われたのですが、「46年もかけて建てた神殿を3日で建て直すのか」と人々はこの時、理解できませんでした。

振り返り
私たちのサンパウロ教会は1965年の宗教改革記念礼拝が始めの礼拝です。44年前の出来事で、いま45年目の歩みを始めています。聖書では46年かけて建てた神殿のことが取り上げられていますが、45年かけて歩んできた私たちの日系ルーテル教会のことも考えさせられます。教会の隣の家は、一日で取り壊しが終わりました。そして、私たちの教会は今移転先を探しています。今日のイエス様の言葉を聞き、私たち自身が、もう一度、それぞれの心の中で、そして教会として「宗教改革」ともいえる福音に立ち返り、新しい出発を促されているように思います。イエスさまは私たちの教会をも、新しくされ、よみがえらせて下さるはずです。

勧め
イエス・キリストの死と復活とともに、私たち自身も、私たちの教会も、新しくされていきましょう。人生で困難に出合った時、自分の考えや自分の力だけでは、苦しみ、立ち止まることがあります。しかし、イエス・キリストを信じ委ねていくときに、道が開けていくのです。祝福が、皆さんの上にありますように。祈り

2009年10月24日土曜日

バザーです!



■■今年の目玉は、食堂と、ルーテル昆布!■■

■食堂は、お仕事で食堂をやっている会員の方がお店でも好評だったという、「冷し中華」を作ってくださいます。他にシュラスコの串刺しのエスペチーニョ、おにぎりに飲み物。

■そして、日本の教会の北海道特別教区の女性会が加工されている「ルーテル昆布」です。

■島根県の無農薬煎茶も入りました。数量限定です。

■ほかにも、カバンや雑貨や日本語絵本、本やいつもの衣服もあります。

日本の皆さん、ありがとうございます。
そして、ブラジルの皆さん、ぜひおいで下さい。
 
Posted by Picasa

2009年10月22日木曜日

10月25日は、宗教改革記念礼拝・・

10月31日は、宗教改革記念日です。

1517年10月31日に、マルティン・ルターが当時のカトリック教会に対して、「95カ条の提題」を発表して、議論を始めたのがきっかけで、大きな議論になり、予想外にルーテル教会として別の道を歩むようになりました。そこから、各種プロテスタントの教会が各国に生まれてきました。
私たちのルーテル教会は、プロテスタント教会の最初の教会、そして、プロテスタント諸派では世界各国に教会がある最大の教会といわれています。

しかし、いつまでも仲たがいをしているわけではありません。
それから500年近くを迎えようとしていますが、今では神学の議論や相互の対話を続け、ローマカトリック教会とルーテル教会は「義認の教理に関する共同宣言」を相互に承認し、世界の人々のために協力しています。

「マルティン・ルター」「マルチン・ルター」「宗教改革」という言葉は、学校の歴史の授業でお聞きになった方も多くいらっしゃると思いますが、その教会と、「ルーテル教会」が同じだということは、すぐにピンとくる方は少ないようで、残念です。

今年は10月25日がこの、宗教改革を記念する礼拝を、各地のルーテル教会で持たれると思います。

あなたも、ご近所の「ルーテル教会」を探して出かけてみませんか?
お待ちしています。

2009年10月17日土曜日

Prédica:"O que você está falando?"

Biblia: Génesis 11:1-9
Prédica:"O que você está falando?"


1, O desenho de hoje é esse. Leitura do Antigo Testamento com a irmã Kiyoko. Irmão Fernando elaborá esse quadro, para hoje. Estamos aprendendo sobre a história da torre de Babel. Por favor, dê uma olhada nesta imagem.
Parece que eles estão ficando irritado. Por que isso está acontecendo? Segundo a Bíblia, é porque que não conseguiam entender o que eles estavam falando.  Foi um acontecimento repentino."O que você está falando?" O que você está falando? " Perguntavam.Eles pensaram que eram estranho. Talvez eles pensassem "você está ficando louco?".

2, Pensando nisso, acho que temos tanto tempo em nossas vidas, também.
Eu e minha esposa ainda estamos vivendo em uma situação como essa no Brasil. Pode haver alguns progressos em meu Português, mas ainda temos problemas culturais ,como muitas vezes.
Em tal situação, eu sempre odeio o caso de Babel. Por que isso aconteceu? Sem isso, não teriamos a aprender Português com essa luta.

3, Então, por que esta confusão de línguas aconteceu?
Segundo a história da Bíblia, por causa do pecado daquele povo. Eles fizeram uma torre, porque queriam ser muito mais elevado do que ninguém. Eles não queriam espalhar-se para o mundo, e eles queriam ser maior do que nunca. Talvez eles queriam subir mais alto e olhar para outro povo. E eles queriam tocar no lugar de Deus? Se subir ao nível de Deus, não precisamos mais de Deus, não precisamos de mais nada. Com esse pensamento mal, poderiam fazer consenso e elabosas um trabalho duro para os outros.Então, Deus decidiu fazer divisão de línguas. Caso contrário, não há outra maneira de acabar com este má rebelião.
Deus fez o jardim do Éden, que significa Jardim da alegria. Mas Adão e Eva trairam Deus. Eles não obedeceram a ordem de Deus e caíram em pecado. Eles não querem viver em Deus ou viver com Deus, eles queriam viver sem Deus. Se comemos a fruta do conhecimento, nós não precisamos mais de Deus porque seremos como Deus?Mas isso é um erro.
E as pessoas da torre de Babel cometeram o mesmo erro. Eles não ouviram a Deus e não obedeceram a Deus, eles queriam ser como Deus.


4 Esta é uma foto da árvore de Fuji em nossa igreja.
Você pode ve-la no jardim em frente da nossa igreja. Cortamos muitos galhos velhos no inverno, com a ajuda dos nossos membros a fim de ter muitas flores bonitas. E no início da primavéra, nós apreciamos muitas flores bonitas como nós queríamos.
Mas depois disso, esses novos ramos forão aparecendo e crescendo. Todas as manhãs eu assistia e apreciava estes ramos novos crescerem. Um dia, eu vi esses ramos ficando cada vez mais elevados, lá no alto.
Ta Bom, você pode ir para cima. Mas não existe mais. O quê você faz quando termina? Eu estava preocupado com esses ramos.
E olhando para outro ramo, este ramo foi para o lado do edifício da nossa igreja.
Ta bom, bom trabalho. Com apenas alguns passos, você pode vir para a igreja.
Mas um dia, ele voltou. O quê está acontecendo com este ramo? Só mais uma etapa, você pode tocar na igreja.

E depois de alguns dias mais tarde, primeiro balcão subiu ao topo do poste, e eles perderam o caminho, eles estavam interligados e caídos. Isto é; como a torre de Babel. Mesmo que você queira subir até Deus, você não conseguirá. Você vai deudos encontrar mas não encontrará.



5. Você pode rir do povo de Babel ou deste ramo da árvore de Fuji. Mas as vezes fazemos e cometemos os mesmos erros em nossas vida.Pensamos que estamos crescendo, e não precisamos mais de Deus e mais nada. Nós pensamos que muitas coisas, quase tudas. E que podemos decidir-las tudo sózinho. Por vezes, manipulamos nossa própria vida com técnologia, ciência, médicina. Às vezes pensamos ser o próprio Deus. Mas com tal pensamento, não podemos compreender uns aos outros, mesmo se não houvesse confusão de línguas. Não escutariamos a Deus e aos vizinhos e mais nada neste momento. Este é o pecado. Com a técnologia altamente desenvolvida em tal situação, não podemos fazer o nosso mundo mais feliz e pacífico. Por que sempre aoverá crimes, conflitos e guerras em nosso mundo, em nossas famílias.

6. Nós precisamos de Deus! Como aqueles ramos da árvore de Fuji, se subirem mais e mais, Isso é sem sentido. O que é necessário para eles é irem à igreja e ouvirem a Deus. Com o amor eo perdão de Deus, podemos ser mais sensíveis a voz do vizinho, podemos compreender o pensamento do vizinho, e podemos cooperar entre si para as coisas boas.
Vamos chegar a Deus. Com o Teu perdão, Teu amor, podemos perdoar e compreender o outro. ELE vai orientar a sua vida e abençoa-lá também. Por favor, mantenhas ouvidos a voz de Deus. Mesmo que não façamos uma grande torre, Deus te fará grande como uma pessoa gentil e sábia. Sempre no amor de Deus. Que Deus te abençoe.  
Posted by Picasa

2009年10月10日土曜日

「与えられた家族、与えられたいのち - A família dado, vida dado -」

第一日課  創世記2章18節~24節 (旧 p. 3)
第二日課 ヘブライ人への手紙2章5節~9節 (新 p. 402)
福音書 マルコによる福音書10章1節~16節 (新 p. 80)

説教題:「与えられた家族、与えられたいのち - A família dado, vida dado -」

導入
昔 いた、東京の教会の幼稚園から運動会の案内ハガキで来て、懐かしく拝見しました。秋は運動会、入園面接の季節です。少子化の難しい中ですが、一定の園児数 は幼稚園の経営にも大切な問題でもあります。小さな幼稚園で勉強や給食や送迎バスなど、保護者の方が喜ばれるサービスはありません。「目と手の届く、心を 育てる幼稚園」の大切さをアピールしていました。「子どもは、親の所有物でも、親の夢をかなえる代替物でもありません」と入園案内に書いて共感をいただい たことを思い出します。「子どもは、神様からお預かりした大切なもう一つのいのち」という考え方は、聖書的であると思います。

聖書に聞く
今 日の聖書は、夫婦のあり方や、子どもについて書かれています。今は、ブラジルでは子どもの日、そして日本の体育の日の季節。体育の日は運動会が多くて、ご 両親だけでなく、おじいさん、おばあさんも、総出で準備や応援をする一大行事です。どちらも家族を考えさせられる季節です。日本語で夫のことを「主人」と 言い、妻のことを「家内」という言葉に違和感を感じて使わない世代が増えてきました。クリスチャンや牧師にも多いです。其々「ご主人さま」ではありません し、「家の中にいる役割分担を強制される存在」でもありません。選択制夫婦別姓の法案も国会で議論されようとしています。所有関係でもなく、従属関係でも なく、神様は、「良き助け手」として女を作られたことを聖書は伝えています。そして、イエスさまが大切な話をしているときに人々が連れてきた子どもたち は、排除されるのではなく、「私のところに連れてきなさい」と歓迎され、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできな い」と、人々の中心に立たせられたのでした。

振り返り
「子どもは純真無垢で、罪がないから」という解 釈は聖書的ではありません。私たちは、生まれながらの罪びとです。そうではなくて、子どもたちは、弱く、知識や経験がなく、親に頼らざるを得ない、弱い存 在であることが、大切な条件として説明されます。そして、そんな子供たちを、神様のもとに、イエス様のもとに、「連れてくるように」と私たちは言われてい ます。

薦め
男も、女も、同じように価値を与えられ、命を与えられた神様です。そして、助け合い、支え あうように願われています。それができない時もあります。私たちは罪びとですから。しかし、キリストの十字架を中心において、理解しあい、赦しあい、助け 合って生きていくことができます。子どもたちも遠ざけず、イエス様のところに連れてくると、祝福をいただくことができます。人生の山や谷で、一人うずくま るのではなく、神様に目を上げることは、子どものころから教え伝えていくことが大切です。そして、私たちの教会も、一つの家族です。この家族の中で、私た ちは、祈り合い、助け合い、時にゆるしあって生きていきます。子どもたちの将来の人生のためにも、この教会という家族の将来のためにも、次の世代に神様を 伝えていきましょう。もっと豊かな神様の大家族として、私たちの教会も祝福をいただいています。教会の将来を考えさせられる今こそ、ご一緒にこの神様の祝 福の中を歩んでいきましょう。

祈り

2009年10月3日土曜日

「一杯の水の報い - Um copo de água e sua recompensa-」

聖書朗読     Leitura Biblica
・第一の日課    民数記 Nm    11:24~30 (AT p.232)
・第二の日課    ヤコブ  Tiago    4:13~5:8 (NT p.425)
・ 福  音 書     マルコ Marcos    9:38~50 (NT p.80)

説教     Prédica
「一杯の水の報い - Um copo de água e sua recompensa-」

導入
先週、次次回オリンピックがブラジルに決まりました。日本から「おめでとー」というメイルを数本、そして、兄と姪っ子から電話までありました。これを機に、日本の教会からの祈りや支援も増えれば嬉しいことですし、ブラジルという国もこれを機にもっともっと良い国になっていければと願っています。

聖書に聞く
さて、今日の聖書の言葉は、私たちに厳しく迫ってきているように聞こえます。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」そしてそれは、「 もし片方の足が・・」「もし片方の目が・・」と続きます。厳しい神の警告のように聞こえます。

振り返り
私たちの教会、ルーテル教会のマルティン・ルターの逸話でこんな話があります。修道院で聴罪神父のところで懺悔をし、自分の部屋に戻る途中で、他の罪を思い出し、神父のところにまた引き返すということが度々あったと。「何か用事があって席を立つけれど何の用事だったか忘れて、もう一度席に戻って考え直す」なんていうことは、年をとって物忘れが多くなると起こることですが、そんな私たちとは大違いですね。窓ガラスをきれいに磨けば磨くほど、小さな汚れが見えてきて、気になって仕方がないのと似ています。私たちは、心を澄まして、自分の罪と向き合えば向き合うほど、そこに罪に満ちた自分の心を見つけてしまいます。そんな私たちの心は、今日の聖書の言葉に震え上がり、縮こまってしまいます。手や足や目を一つ一つとってしまうと、一生の間に何が残るだろう・・と思わされてしまいます。

勧め
しかし、今日の聖書をじっくり読んでいくと、二つのことに気が付きます。一つは、「キリストの弟子だという理由で、あなた方に水を一杯飲ませてくれるものは、必ずその報いを受ける」と、キリストに従うものを責めるのではなくて、最大限に守っているということ。そして、二点目は、続く先ほど読んだみ言葉は、キリストに従う者に対する厳しい言葉ではなくて、キリストに従うものをつまずかせる者に対する警告だということです。キリストは、ご自分に従うものをそこまで愛しているということを今日の聖書は告げています。どんなに小さなものでも大切にされるということ。そして、「その者をつまずかせると、ただではおかない」とでもいう意気込みです。キリストに従う私たちは、「ただではおかないぞ」と攻められる側ではなくて、「ただではおかないぞ」と他者に迫り、そこまでして私を守ってくれている側に立たされているという、驚くべき恵みに気づかされるのです。心を見れば罪深いこんな者を、そこまで愛し、赦し、守ってくださる神様に感謝し、喜んで生きていきましょう。

-祈り-

私たちの教会について

「教会といっても色々あるようで、よく分からないなぁ。変なとこじゃないといいけど・・・」とよく聞きます。私(牧師)も昔そうでした。そこで、簡単に説明します。(igrejaluteranajaponesa@gmail.com)

 ブラジル福音ルーテル教会(IECLB)は、宗教改革者マルティン・ルターの流れを汲む、歴史のあるプロテスタント・キリスト教会です。 世界ではルーテル世界連盟(LWF)を組織し、世界最大のプロテスタント教会グループとして、世界各地で伝道・奉仕・教育に携わっています。LWFの社会奉仕部門のほか、ACTを通じた難民や被災者の緊急支援、開発事情では世界で定評があります。
 ブラジルでは、多数の日系人や駐在の日本人の方々のために、1965年から日本人牧師が宣教師として派遣されています。
 教会では、日本語での礼拝やメンバー同士の交流に加え、ブラジルでの社会奉仕の働きにも取り組んでいます。ポルトガル語での礼拝も始めました。

 日本語の礼拝、ポルトガル語の礼拝に参加したい方、牧師に相談がある方、楽しい食事やお茶をしながら、わいわいと情報交換をしたい方、日本のことをもっと知りたい日系人の方、駐在や引越しでブラジルへ来てもっといろいろな情報や人脈がほしい方、どなたでも、お気軽においでください。

 教会では、日本語によるパソコン相談教室や、日本語教室も始め、地域の皆さんにも喜んでいただいています。

 まずは、メイルをいただくか、日曜日の礼拝に来てみてください。牧師が丁寧に紹介や説明をいたします。
 ブラジル4年生?の牧師の日常生活を気ままに綴ったブログもご覧ください。